競走馬の安楽死問題に思う動物愛護

後光の射すサラブレッドの画像

先日、競馬のレース中に負傷した馬が、そのまま安楽死処分されるというニュースがありました。
少なからず動物を愛する人なら、誰もが胸を痛めたことと思います。

事実、ネット上には「これは動物虐待だ」という声が多数上がりました。

ですが、もう一方で、単純に「悪だ」とは言い切れない現実があるようにも感じました。

今回は、競走馬の安楽死問題をきっかけに、 動物愛護という考え方の難しさ について少し掘り下げてみたいと思います。

競走馬と安楽死

競馬は、人と馬が一体となってスピードを競うスポーツです。

その華やかな舞台の裏には、想像を絶する厳しいトレーニングや体への大きな負担が隠されています。
特に脚部への負担は深刻で、レース中に骨折や靭帯の断裂を起こす馬も少なくありません。

そして、もし重度の怪我を負ってしまった場合、回復の見込みがないと判断されると 「予後不良」と診断され、安楽死という選択肢が取られる のです。

これは決して残酷さからではありません。
馬にこれ以上苦痛を与えないためのやむを得ない最善策 として、獣医師の手によって安楽死処置が行われます。

とはいえ、 「人間の都合で走らせ、壊れたら殺すなんて」という批判 が出るのも無理はありません。

このジレンマこそが競馬という世界の大きな課題なのです。

動物愛護の声とその影響

近年、動物福祉の意識は世界的に高まっています。

競馬界でも、馬の安全確保に向けた取り組みが進められていますが、それでも事故はゼロにはできていません。
そんな中、「競馬は動物虐待だ」「今すぐやめるべきだ」という強い声が上がることもあります。

誰もが馬たちのことを想い、強い正義感に駆られてのことでしょう。

動物を守りたいという気持ち は、もちろんとても尊いものです。
ですが、その声を無条件に受け入れた結果、かえって別の問題が生じる可能性があることも私たちは忘れてはいけません。

ときに善意が裏目に出ることも

この話を聞いて、私はふと昔の話を思い出しました。

江戸時代から明治時代にかけて、日本には「見世物小屋」という興行があったそうです。
そこでは、障害をもった方が生計をたてるため、自ら演者となって舞台に上がりました。

やがて近代化が進み、人権意識が高まる中で「障害者を見世物にするなんて差別だ」という批判が起こり、見世物小屋は次々と廃止に追い込まれました。

一見すると、これはとても良いことのように思えます。
しかし、 実際には「見世物小屋」という数少ない職業を失った多くの障害者たちが、路頭に迷う結果となった そう。

善意から出発した運動が、思わぬ形で当事者を苦しめてしまった、そんな歴史的事実がたしかに存在しています。

競馬の未来を考えるとき

競馬もまた似た構造を持っているといえるかもしれません。

もし「動物愛護」の名のもとに、競馬という文化を廃止してしまったら、どうなるでしょうか。

まず、 サラブレッドという種自体の生産数は激減する でしょう。
引退後に乗馬やセラピー活動に転用できる馬はごく一部で、現実にはほとんどの馬に新たな居場所は見つかりません。

また、競馬産業に携わっている多くの人たち、調教師、厩務員、騎手、牧場のスタッフが仕事を失うことにもなります。
彼らもまた、ただ 馬に携わるために莫大なコストを払ってその舞台に立つ「動物愛護家」のひとり であるはずです。

実際にそれが起きた時、どうなるかは誰にもわかりません。
ただ、安直な正義を振りかざすだけで、誰もが望む結末にたどり着けないことは確かではないでしょうか。

動物愛護は、だからこそ慎重に

動物を大切にする心はこれからの社会にとってますます重要になるでしょう。

ですが、その「愛護」の剣は時に諸刃になりかねません。

感情的に行動するだけではなく、その結果にまで思いを巡らせる慎重さが求められる、それが今回の競走馬のニュースを通じて私が改めて感じたことでした。

動物愛護とは、 ときに「可哀想だから助ける」だけでは不十分 です。

どうすれば本当に幸せにできるのか を考え抜くことこそが、真の愛護なのだと思います。 これからも、馬たちが少しでも安全に、幸せに過ごせる未来を願ってやみません。

さいごに、リバティアイランドの御冥福を心よりお祈りします。

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ペトラ編集部

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